弘前大学生協について

理事長挨拶

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弘前大学生活協同組合理事長山田 史生

学生諸君と雑談していると、ちょくちょく「大学の勉強って、社会に出てから、何の役に立つんですか? 」と質問されます。申し分のない愚問ではありますが、きっと切実な疑問なのでしょう。

「プラクシス(実践)ポイエーシス(制作)という役に立つ知よりも、テオーリア(観想)という役に立たない知のほうが、よほど価値があるんじゃないかな」と言いたいのをグッとこらえ、「役に立つっていうのがどういうことか、それを考えるのが大学の勉強だと思うよ」といつも煙に巻くことにしております。

わたしは漢文の教師です。たとえば『論語』を授業で読むとします。もし「孔子はどんな役に立つことを教えてくれるのだろうか」と物欲しげに読んだりすれば、それは『論語』には「正しい読み方」というものがあって、それが示されさえしたら、誰にでも『論語』が「わかる」だろうと思っていることになります。

正解のある問題に答えるのが、わたしは苦手です(その証拠に、数学には早々に落ちこぼれました) 。わたしも研究者のはしくれですから、いちおう研究をしています。でも、自分のやっている研究の正解を(そもそも正解があるのかさえ)わたしは知りません。

研究者とは、そもそも有るのか無いのかわからない答えを求めつづける人種だと言ってよいかもしれません。

大学がそういう場であることと、大学生協のあり方とは、根っこのところで通じていると思うのです。大学生協の存在理由は「学生・院生・留学生・教職員の協同で大学生活の充実に貢献すること」です。これ以上でもなければ以下でもなく、まして以外ではありません。大学生協は「自立した教育・研究のコミュニティとしての大学の理念と目標との実現」を底から支えながら、しかし「生協はこんなに役に立っている」と声高に言うことはありません。『論語』為政第二に「五十にして天命を知る」とあります。孔子は50歳になったとき「こういう生き方は天から与えられた使命だったのだ」と覚悟しました。

50周年を迎えた弘前大学生協も、弘前大学といっしょに夢中でやっているうちに、だんだん「やれること」の見当もつき、ようやく「やるべきこと」が見定められるようになりました。これからも「こういう営み方が弘大生協に与えられた使命だったのだ」という思いを噛みしめつつ、弘前大学と共に歩んでゆく所存であります。

(50周年理事長挨拶 50周年にして天命を知る)

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